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株式会社ヴィックの技術ブログです。

キャリア座談会--SUDARE 丹野さん, GEL 石津さんとvicc渡辺で語る①

2023/11/10にvicc社内で座談会を開催しました。表題の通りゲストのお二人と当社代表渡辺で、自身のキャリアやその周辺の話題を扱っています。 その内容を伝えるブログ連載です。まずはそれぞれのキャリア紹介をしていきます。

vicc 渡辺経歴紹介

渡辺健児の履歴書

学生時代

【渡辺】 株式会社viccの渡辺です。 高校までサッカーしかやってなくて、本当に何も勉強してなくて、典型的な体育と美術だけが5の人間でした。

さすがにサッカーはもうこれ以上、上にはいけないなと思っていました。 高校を出る時バブルの頃で、デザインって言葉がめちゃめちゃパワーがあったんですよね。 それで、なんとなくデザイナーってのに憧れて、じゃあ、美大だろうなということで、日本大学芸術学部いうところに入りました。 日芸も色々学部があって面白いところではあったんですけど、映画とか演劇とか写真とか文芸とか色んな奴らがいて、普通の会社に入るような人があまりいないような学校でした。

私は最終的にはカーデザインをそんな学校でやってたんですけど、カーデザインって当時はまともな会社に入らないとできなかったんで、うちの学科だけ、みんなそういうところに行くような人たちだったんですね。

で、私も一応内定はあるカーメーカーからいただいたんですけど、本当に勉強ちゃんとやってなかったんで留年しちゃったんですよ(笑)。当然、内定が取り消しになりました。

最初の仕事

【渡辺】 そんな経緯があって、次の年でもちゃんと就職しようと思って、中村製作所っていう千葉県松戸市にあるちっちゃい会社に入りました。 こういった公園施設とかストリートファーニチャーをデザイン、製造するメーカーで設計とデザインの仕事をやっていたんです。

中村製作所様 HP

これを7年くらいやったのかな。

この当時にだんだん3Dの技術が世の中的にも出てきて、90年代の前半って普通に3Dがあったんですけど、それを設計業務というか、CGにも使うようになりました。

「完成予想図を3Dで描けるよ」って上司から言われてやり始めたのがこの時代だったんですね。

バブル崩壊と渡英

【渡辺】 ただ、バブルが弾けて、リストラで半分ぐらい会社の人がいなくなって。給料も全然あがらなくて、これはもう少し方向替えようかなと思ってイギリスに行くことにしたんです。

ただ、この時もどこか大学院に行きたいというのはおぼろげにあったんですけど、そんなに明確な目的はありませんでした。

イギリスでRCAに行きたいなとか思ったんですけど、RCAって行ってみてわかったっていうか、(行く前に調べろって話なんですけど、)学費がめちゃめちゃ高い。

それと卒業制作を見て、向こうの人と話をしてみたんですけど、もう全然、内容が理解できなかったんですよ。 そして「これは俺はいけないな」と思って方向転換をして、そうすると僕は日本のすごい有名なソニーとかで働いてたわけでもないんで、当時は英語もできなかったから、ゲリラで行くしかなかったんですよね。

それは別に地下に潜ったとかじゃないんですけど、色んなところに出入りをしました。 ロンドン大学の夕方からやってる夜間コースみたいなのがあって、そのファニチャのデザインコースというのがあって。 で、「そこに行ったら向こうのデザイナーもいるだろう」と思って。 このコースに入って頑張ってやってコースの終わりに、先生に「誰かデザイナー紹介してくれない?」って言ったらすぐ電話してくれました。

で、そのデザイナーと働き始めたんですけど、当時CGがこういうの(上図)描けたので「じゃあ、お前CG担当ね」ってことで始めたんですけど、一向にお金くれなかったんですよ、3か月くらい。

【会場】 笑い

【渡辺】 「いつ給料もらえるの?」っていったら「そんなこと一言も言ってない」といわれました。 「じゃ、もう俺やめるわ」といって辞めました。

建築パースを描き始める

【渡辺】 で、当時また知り合いのつてというか、ニュージーランドのおっさんと出会って、その人は個人でディベロッパーみたいなことやっていて、「俺のイメージをお前のCGで描いてくれよ」って言われて。 こんなパースを描くようになったんですね。

なので、この辺がだんだん建築業界への関わりが始まったのかな。

ただ、別にこの人、毎月給料をくれるわけじゃない。 さすがにお金がなくなってきちゃって、やばいなと思っていました。

その後、別のデザイナーさんと一緒に3DのCADを使って医療機器のデザインをするようになりました。それが1年くらいで、プロジェクトが終わったら、「お疲れ様」ってことで仕事がまたなくなったんです。

当時は、まだ英語学校みたいなところに行っていました。 そこで、たまたま隣に座っていたルーマニア人の女性の人がいて、仲良くなったんで、自分のできることを見せて「仕事を探してるんだ」って言ったら、「うちの旦那が多分建築CGっぽいことやってるはずだから来なさいよ」って言われて行きました。

次の日から、「じゃ、仕事する?」ってことになって、建築CG業界みたいなところに入っていったんですね。 で、ラッキーだったのはそこのパートナーのひと、ダンとクリスって人たちだったんだけど、その人がもともと設計をやっていて、リチャード・ロジャースの出身だったですよ。

結構有名なところのCGをいっぱい描いて、それで建築のこと、そういったところから勉強したみたいなところがありました。

それで初めてちゃんとした仕事について、ビザももらった。

右側のやつがリチャード・ロジャースのニューヨークのWTCですが、これの仕事をやらせてもらったり、

最終的にはロンドンオリンピックのメインスタジアムのパースを担当させてもらうこともできました。

帰国と独立

【渡辺】 「じゃあ、そろそろ独立だな」と思って、独立するんだったらそうは言っても人脈がある日本かなということで、これで2008年に日本に帰ってきたんですね。

最初は個人事業主として建築パースを描くっていう仕事をしていました。

ただ、その前から一時帰国の時とかに槇(文彦)さんのところに知り合いのつてで紹介してもらったりとか、いろいろ営業かけていて、帰ってすぐ槇さんから仕事をもらいました。↑の絵は少し後の方の仕事なんですけど、鹿島(建設)さん、竹中(工務店)さんなど、結構名だたるところから、すぐ仕事をいただくこともできて、なかなか順調な滑り出しだったかなという感じです。

やがて、ある日、坂茂さんのところから電話がかかってきたんですよ。「うちのパース描けますか?」

これは2回目の仕事かな?内藤(廣)さんに負けた富山の県立美術館でした。

これが3回目の仕事で富士山世界遺産センター静岡。

そのあとすごくて、台南の美術館も勝って、次も静岡空港のコンペも勝って3連勝。これで坂さんとガッチリ仕事をやるようになりました。

ビジュアライゼーションとBIMの2足の草鞋

【渡辺】 まだ、個人事業主の時代なんですけど、初のBIM案件っていうのをこの時代にやったんですね。BIMって言葉も知らなかったです。

表参道ケヤキビルと言って團紀彦さん設計の表参道に立っているやつですね。伊東豊雄さんのTOD’Sの隣にあるやつ。 ゼネコンさんが、「仕事とっちゃったけど、どうする?どうやって作るんだ?」って。 「渡辺さんところ3Dできるんだよね」、「できますよ」、「じゃあ色々手伝ってくれ」ってことで入りました。

その当時は本当にBIMって意識も全然ないけど、型枠の業者とか色んなサブコンさんたち、ゼネコンさんたち、もちろん設計の人も含めて色々試行錯誤した案件です。 この時にRhinoを初めて使ったんだと思います。

当時CGの仕事は十分に忙しく、面白い案件ばかりだったのですが、もう少しもの作りに近いところで仕事をしたいと思っていました。 元々プロダクトデザインやってたっていうのもあって、もう少し手で触れるような、そういう仕事をやりたいなと。 同時に、現場に近づける、BIMってものがあることがわかりました。

日本のBIM元年って2009年と言われてますが、世間的にはBIMということが、まだ全然流通してなかったと思います。

3Dを使った技術で何か設計とか施工っていうものが、もう少しいろいろできるんじゃないかっていう気運がちょうど高まってきたとこだったと思うんですけど、人材的にBIMっていう職能が全然一般化されてなくて、人もいなかったと思うんですね。

で、その当時で多分我々みたいにCGをやっていた人間というのが、一番3Dに近い。 そこから入っていった人も結構いたはずです。

いずれにせよ、こういう仕事をこの時代にやっていたということですね。

このviccという会社は、個人事業主から法人化したんですね。同時にSyntegrateは海外から来た会社です。日本で仕切れる人間を求めていて、知人を介して紹介されました。

先ほどの表参道ケヤキビルでBIMをやりたいなと思っていたんですけども、今さら組織事務所も入れるわけじゃない、ゼネコンに入れてもらえるわけでもない、日本ではBIMの先生もいないだろうと考えました。

「じゃあ、この会社に入った方が早いだろうな」と思って代表になったということですね。

いきなり、日建さんのBIMの仕事とかをやらせてもらって。

坂さんの富士山世界遺産センター。 これもやっぱり施工の段階になって、ゼネコンさんが「こんな形どうやったらいいんだかわかんない」ってことで、坂さん達から「渡辺さんところ3Dできるでしょう?」ってことで紹介してもらいました。

これ以降本格的に施工BIMをやり始めたんですね。 そのあと、だんだん複雑形状のやつもいっぱい増えてきて、かなりやっている。

まだ、ビジュアライゼーションの方もバリバリやっていて、2足のわらじの状態が2015年から続いているという状況です。

そして、もうこれはほとんどお笑いじゃないかとしか自分では思ってないんですけど、日経アーキさんで毎年やっている企画で「10大建築人」というものです。 なぜか2021年に9位に入っちゃったんですね。

そのあと、今度は慶應SFCで、池田靖史先生から「教えてくれないか」といわれ、建築技術論というタイトルで、デジタル技術がどのようにに建築を変えていくのかを主題にして教えています。

今、会社としてはviccとSyntegrateを合わせて、大体22か23人で少しずつ大きくなっているという状況です。

まとめ

【渡辺】 私のキャリアのまとめとしては、そもそも建築の専門教育を受けていないけど、なぜか建築の仕事をしているという結果になっています。

なぜかって言うと、プロダクトデザインを通じてCGスキルがあって、それがだんだん建築CGをやってみないかっていうところで仕事をもらうようにもなって、それが最終的にはBIMっていう仕事に繋がったってことだっだと思うんです。

時代がそういうことを許したみたいな部分があったと思うんです。

ただし、途中から会社経営っていう立場になっているので、エンジニアの人のキャリアのプランの参考にはならないと思います。 今後こんな流れができるということでは、必ずしもないんじゃないかなって思っています。


vicc渡辺の経歴紹介でした。 次回はSUDARE丹野さんの経歴紹介です。